会長報告:今年次第43回 通算第1276例会

今日は内田市長をお呼びして、岡崎のこれからを語っていただきます。よろしくお願いします。内田市長とは同い年で、私の奥さんとは幼稚園から高校まで同じで、高校3年のクラスも同じでした。また、一昨日のRAC年次大会の市長からの祝電の中で私と同じRACのOBだったということがわかりました。忘れていました。
今日は10日前に行った会津若松のことについて少し述べてみたいと思います。
会津は二代将軍徳川秀忠の子家光の弟で唯一側室の子保科正之が会津藩主となって以来、徳川家に忠誠を尽くすことを十五の家訓として制定し、切っても切れない関係を築いて来ました。しかし戊辰戦争の結果は皆さんご存知の通りです。
誠実で、まじめで、忠誠心厚く、まさに、主君に対する忠誠心を何よりも重視した当時の武士道の具現者であった会津藩主松平容保(かたもり)は藩祖保科正之の遺訓や孝明天皇と徳川幕府に対する思いこみに囚われずに、冷静に、数字を基に、状況の変化を掴み、分析して、会津藩の取るべき戦略と行動方針を考え抜くべきでした。
結果から見ると、不幸なことに、広い視野での情報が少なく、若かったこともあって、自分とは視点が違う幹部の意見や、反対意見を検討して、意思決定するという姿勢を欠いた専制主君(専制支配者)でした。国家老の西郷頼母は松平容保の京都守護職就任に反対し進言したが、却下。このため藩の財政は相当逼迫して、偽金までも造ってしまった。また戊辰戦争では和議を主張したものの通らず。松平容保の重大な欠点は情報軽視、さらには、情報無視といった独裁性が強かったということです。孝明天皇と公家たちの攘夷命令が、いかに現実離れした、荒唐無稽なものであるかを少しでも理解すべきでした。
松平容保は、自藩についても、味方についても、敵についてもゆこ朝廷についても、幕府についても、国内情勢についても、国際情勢についても、あまりにも知らなすぎたといわれています。
松平容保と会津藩にとって何よりも不幸であったことは、薩摩藩の島津斎彬(なりあきら)や、長州藩の吉田松陰のような、優れたレーダー的情報収集力と広い視野を持った、今でいうインテリジェンスを持った指導者がいなかったことです。
その中でも数少ない人財を、蟄居(免職・外出禁止)させたり、北海道へ左遷させたり、切腹させたりし、デタラメ極まる人事管理が行われていたようです。
松平容保は、西郷頼母(たのも)、秋月剃次郎、神保修理、山本覚馬、山川大蔵らを活用して、薩摩人脈、勝海舟人脈、松平春嶽(しゅんがく)人脈等から可能なかぎりの情報を引き出すべきであった。例えば1865年、会津と江戸の会津藩の幹部が、松平容保に「藩主引退と京都から引揚げ」を進言するが、松平容保は断固これを拒絶しています。
しかし、結果から見るならば、この時、松平容保はこの幹部たちの進言を受け入れて、「健康を損ねた」などの理由をつけて藩主を引退し、無責任な徳川慶喜・松平春嶽のように、さっさと京都から引き揚げて会津に遁走すべきでした。松平容保が、転進、撤退、降伏についての意思決定を誤ったことが多くの悲劇を生んだのではないかと思います。
行政のトップに立つ人には、YESマンだけでなく、忌憚のない意見を言えるブレーンを持ち、虚心坦懐に物事を捉えることができなければなりません。
松平容保は今話題の舛添知事のようなワンマンで、人の話が聞けない、聞こえない、しかも風が読めない人だったのかなと思いました。
ところで、 国家でも、政党・企業でも、個人でも、ある程度の時間が経過して、結果が明らかになってみると、「あの時、なんで、あんなバカな事をしたのだろう」と思うことがあります。
昔の愚行を、教訓として生かすことは必要ですが、しかし、いつまでも悔やんだり、悩んでもどうなるものでもなし、過去を思い煩わない、未来を心配しすぎない、今を無邪気に生きること!が大事だと思います。
脳の神経回路の自在さをつくり、しなやかな発想と幸福感を創り出し、
流れをつかみ、あるべき結果を祝福して受け入れる。これらのことは、年度始めに会長方針の中で述べたことです。もっとも誰も覚えていませんが。
会津に行ってふと思い出したことを述べてみました。
最後に「あいづっ子」宣言を。会津若松の駅のホームに掲げられています。1.人をいたわります2.ありがとう、ごめんなさいを言います3.がまんをします4.卑怯なふるまいはしません5.会津を誇り年上を敬います6.夢に向かってがんばります やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです!
来る7/23(土曜日)午後2時より「岡崎の将来を考えるシンポジウム」を商工会議所にて開催しますので、是非時間のある方は出席して下さい。
内田市長には、もっともっとリーダーシップを発揮し、岡崎の発展のために頑張っていただけることを期待しております。